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このところ里山と持続可能社会のテーマが続いていますが、今回もその続きです。 六兼屋は里山のはずれにありますが、もともと八ヶ岳に住みたいと思ったときは、里山のある地域ではなく、もっと標高が高いリゾートっぽい立地でした。多くの人が望むように。 しかしいろいろな偶然と必然が重なって、今の場所に落ち着いたわけですが、当初の通りリゾート立地の家を建てていたら、今回の一連の里山に関する知見を作り出すことはできなかっただろうと思います。ちょっと不思議な巡り合わせですが、最終的に里山立地の今の土地に決めるころは、この土地はもしかしたら多くのことを教えてくれるかもしれないという期待が高まっていました。 ■里山のコンセプト 前回のコミトン「070 持続可能社会のイメージ」では、里山から学ぶべきコンセプトとして
という3点が上げられます。 この3点のなかに含まれていることですが、僕が里山の価値として特に注目している点は、これらの特長が誰の目にもさっと見渡せる、周囲1~2キロ程度の範囲内に収まっているという点です。つまり、里山の機能を理解している人が里山の中にいれば、どこで何が行われているか、どことどこがつながっているかが、たちどころにわかるシンプルで見えやすい構造をしているのです。 里山の基本は水田でした。水田は水によって成立する生産拠点なので、水の流れ、つまり水路の上流下流が必ずあります。日照も重要です。水田にいちばん日照があたるように、また北風、台風の風が直接水田に吹きつけないように、周囲に林が残されたり、集落がつくられました。 野菜は副食品をとるための畑は家の近くに、林の奥、山が深くなるところには、いくつかの集落が共同で山菜やキノコとり、薪炭用の木材の切り出しなどの資源管理を行う「入会地(いりあいち)」がつくられました。 ■風景の中に環(わ)が感じられる「里山感覚」 どこにどんな機能があるか、地形や土地利用から簡単にわかることによって、里山の住民はいつも自分たちの里山がうまく機能しているか、直感的に見ることができます。一部の田んぼの生育が悪ければ、水がよどんでいないか、雑草が増えていないか考えたり、雑木林の林床が暗くなっていれば、下草を刈ったり、育ちすぎた木を切る必要があることがわかります。 里山では、水田、雑木林などの各機能が問題なく機能しているかという、部分ごとの状態がすぐわかるだけでなく、それぞれがいつも相互に関係し合っていて、ひとつを改善しようとすると、そこだけでなく、そのひとつ前、そのふたつ前、さらに、その次や、次の次をいっしょに改善する必要があることが、目で見て、感覚的につかむことができました。 このように目の前に見える風景の中に「環」がいつも感じられ、ひとつを変えることは、そこにつながっている部分もいっしょに影響を受けるということが感覚的にわかる状態を、僕は「里山感覚」と名付けています。 ■つながり感覚が失われている 振り返って、今、僕たちが通常住んでいる都市やビジネスの世界はどうでしょうか? 自分たちの会社が利益を上げるために生産を増やせば、下流である流通や小売りの場面でどのような影響が出るか、直感的にわかる状況とはいえないのではないでしょうか。逆に、上流である仕入れや調達面にどんな影響があるかも同様です。 家庭でも、どこかとつながっている感覚は失われています。料理をして、出た野菜くずや残飯は、かつては土に埋められ、地中の微生物によって分解されて、やがて再び野菜やイネの養分になりました。今はまな板の上に残った切りくずは、いずれ野菜に戻るものではなく、ゴミ箱に入り、マンションの共同ゴミ捨て場に行くまでしか、つかめていません。せいぜいゴミ焼却工場がどこにあるかぐらいわかっているでしょうが、そこでどのような処理が行われ、その先どうなるか、関心を持つ人はいないでしょう。 家庭へのinputも同様です。野菜や肉はどこから来るのか、ほとんどの人は無関心であり、わかっているのは「ダイエーの野菜売り場にあった」「西友の精肉売り場のパックに入っていた」というところまででしょう。それより上流については関心がありません。 ここで重要なことは、都市の生活が自分たちの上流や下流に関心がないことではなく、上流や下流が、目に触れる機会がないように覆い隠されているのだという点です。 里山では各機能のつながり、その中で人間がはやしている役割が、目に触れ、手に取るようにわかる状態でした。都市の生活になり、僕たちは里山感覚、つまりすべてのものがつながっているという感覚を失ってしまいました。この感覚を取り戻すことが、持続可能社会を実現するためのキーになると僕は思っています。 ■里山の知恵を現代の中に解釈する では里山が健全だったころ、里山感覚はただそこで生活していれば身に付いたのでしょうか? もちろん目の前にある水田、水路、畑、林を見て、手を入れて暮らしていれば、実感としてつかめたということもあるでしょう。しかし、実は、この里山の「つながり感覚」は、日本人が親から子へ教え、伝えてきた教育の成果なのだろうと思っています。 我田引水という言葉を四字熟語として学校で習いますが、里山では自分の田んぼに水をたくさん引き込めば(inputを誰かが一方的に増やせば)、資源が枯渇してほかの田んぼに水が回らなくなることを知るための言葉でした。こういった「環」を成立させる言葉、「環」の重要性を理解させる知恵が、里山や日本の文化の中には、たくさん存在していたのだろうと思います。 僕らはその多くを学ぶ機会をすでに失ってしまいました。日本の生活にしみこんでいた、里山感覚を伝える知恵は、ある世代を断層として、伝えなくてもいいものと判断されたのです。その断層は、明治期から始まっていたのでしょうが、最後の断層が戦後の1950~60年代にあるだろうと思っていますが、この断層については、僕自身まだよくわかっていません。ひとつ、責任があると思っているのが学校教育で、このあたりの構造についてはコミトン「046 天空の民に見る教育の意味」にまとめておきました。考察が深まれば、また書いていこうと思います。 とはいえ、我田引水の例でいえば、「だから自分勝手に田んぼに水を引き入れてはいけない」という教訓そのものに、大きな意味があるとは考えていません。この四字熟語から現代の人が学ぶべき教訓は、あくまで「環の感覚(里山感覚)」を実感するための教訓であるべきでしょう。 我田引水は、たとえば
というような知見を得ることが重要ではないかと思います。我田引水とは、自分の領域、今でいうと自分の家、自分の会社、自分の部署に資源を投入するということです。その行為は、単に自分の領域についての問題ではなく、input側、output側に必ず影響を及ぼさざるを得ないという知見を引き出すことが重要だと思います。 里山から学べることとは、里山のしくみや里山で生きていた知恵そのものを学ぶことではなく、その知恵の意味を現代の僕らの生活や仕事に置きかえて、「環になっていることを知り、行動する」ための知見として、身につけることにある。それが僕の考える「里山のコンセプトを学ぶ」ということの意味です。 ■里山をスケールアップした「盆地感覚」 ここまで見てきたとおり、現代のビジネスや都市生活でも、里山感覚、つまり「環でつながっている感覚」を身につけることの重要性はわかるとしても、現代に生きるわれわれは里山のような小さな輪の中で生きているわけではありません。生活に必要なものも、里山が「生きて」いた江戸時代とは比べものにならないぐらい増えています。つまり文明が高度化するにつれて、里山という比喩が難しくなっているのも事実でしょう。 僕は、里山感覚と現代の都市生活をつなぐ中間的な感覚として「盆地感覚」があると思っています。 日本で広い平地というと、関東平野や大阪平野など限られています。それ以外の日本各地に住んでいる人の場合、多くは盆地か、もしくは山から海に広がる扇状地と呼ばれる地形の場所に住んでいる人が多いのではないかと思います。 僕の東京と山梨を往復する生活では、東京は広大な平野の真ん中、一方山梨では、甲府盆地を通っていきます。そのまま長野方面に足を伸ばすと、諏訪盆地、松本平野、伊那谷などの盆地が続く。高速道路は概して盆地のはずれの、山の中腹に通っているので、どの盆地も全体がよく見えます。甲府も諏訪も、向こう側はっきり見えるぐらいのサイズです。 ■「盆地感覚」を持った経営 日本の平地の多くは盆地か、山と海のあいだの扇状地で、これらの土地では日常生活の場面では平地全体を感じることは難しいのですが、周囲を囲む山の中腹まで行くことがあれば、自分たちの街を一望の下に見下ろすことができる、という地形です。 諏訪や松本、伊那などの長野県の盆地には、明治期には製糸工業、絹織物工業は生まれ、その後は精密機械産業の拠点になりました。山がちなスイスに時計など精密機械産業が生まれたのを参考にしたのでしょう。この地域を代表する企業が、セイコーエプソンです。知ってのとおり、プリンターや液晶プロジェクター、電子デバイスなどを生産する世界有数のエレクトロニクス企業です。 もちろんエプソン以外にも、大手中小含めて、多くの製造業が集まるこの地域では、昔から環境問題が続いてきました。わかりやすい例では諏訪湖の汚染がそれで、高地の澄んだ湖だった諏訪湖は、高度成長期にはアオコの発生する緑色の湖になってしまい、住む人びとを悲しませたこともあります。 このような自体に周辺の工場も憂慮し、環境汚染を防ぐ対策も早くからとってきました。もちろん現在に至るまで、その対策は十分とはいえません。しかし、一方で、これだけの機械産業があると言うことを考えると、今の松本や諏訪の環境は奇跡的と思えます。 同じく盆地にあるネパールのカトマンズやメキシコシティーは、慢性的な大気汚染に苦しんでいます。一方の諏訪や松本を中腹の高速道路から見下ろしても、盆地にひどいスモッグがかかっていることは少なく、工場からの煤煙が盆地にたなびいていることもありません。この違いは、もちろん環境に関する規制はあるにせよ、盆地に立地する企業が、自分たちの盆地を汚せばすぐに盆地全体が汚くなってしまう、と言うことを、60~70年代の公害の時代に、感覚的にわかったからではないかと考えています。 自分たちが働く工場が毎日出す煙で、盆地の空気が風下ほど汚い。そんな経験をいやというほど感じてきた人びと。逆に、なんとか汚染を最小限にすれば、産業があっても盆地はきれいになっている(ように見える)という理解。 僕はこの感覚は、里山に通じると思っています。里山での生産は農業中心でしたが、盆地には工業がある。工業生産を行いながら、ていねいに環境を利用すれば、目立った汚染を防ぎならが、生活を続けること(持続すること)ができる。それがわかったのは、彼らが見下ろせば全体が見える盆地に住んでいることと大きな関係があるのではないか? ■盆地は盆地につながる 盆地はまた、完結していない空間です。松本盆地には北アルプスや中央アルプスからの水が流れ込み、犀川をつくっています。犀川は北に向かって流れ、山の細い谷からあふれ出して下り、下流の長野盆地に流れ込みます。 もし松本平野で川を汚せば、その水はそのまま長野の人が飲むことになる。松本盆地では松本の人の生活を守るための「環の感覚」だけでなく、自分たちのキッチンの排水口が下流の長野の人びとの上水道につながっていることを、はっきりではないにせよ、わかっているのです。 長野にたどりついた犀川は、南から流れてきた千曲川と合流して長野盆地の田畑と生活用水、そして工業用水として使われたあと、その排水が再び盆地をあふれて流れ出し、次に向かうのは新潟平野です。松本、長野の人びとが水を汚せば、新潟平野の米や生活が汚れる。このつながりがどこまでわかっているかがとても重要です。 僕のいる六兼屋は山梨県で、長野の人たちの感覚は必ずしもわかりません。しかしエプソンを初め長野県の企業についてのいくつかの情報を集めると、少なくとも東京の企業とは異なる、環境面での「つながり感覚」を持っていると感じます。 そのつながり感覚は、おそらく里山感覚をスケールアップし、「水増して薄まった」ものであり、水増ししてあるにせよ、「環の感覚」を持っているからこそ、見渡せるほどの小さな盆地の中にあれだけの産業があっても、松本も諏訪も、破滅的な汚染を免れているのだと思います。 里山感覚から盆地感覚へのスケールアップの、主に心理面での過程と、盆地に立脚するエプソンのような企業の行動原理には、「環の感覚」を理解するための多くのヒントがあるのではないかと僕は思っています。別の言い方をすれば、長野県のような地方の平地に立脚した「盆地型企業」は、これからの持続可能な社会と産業を考える、最先端の知見が内在している可能性がとても高いのではないか、という仮説です。 「田舎」や「地方」に立脚する企業は、これからの社会の中で、最先端に立てる可能性を秘めているのではないか、という思いもあります。この考え方は、環境対応の基本である、「Think Globally,Act Locally」ともダイレクトにつながっています。 読者の中に、こういった企業にお勤めの方がいらしたら、ぜひ情報をいただきたいと思います。これからの僕の研究テーマのひとつです。
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