114 上高地という自然の形

仕事の都合をつけて、月曜日火曜日と1泊で上高地に行ってきました。以前から行ってみたいなあと思っていたのですが、ようやく思いがかないました。

読者のみなさんは上高地にどんなイメージを持っているのでしょうか？　そもそもどこにあるのかわからないという人もいるでしょうし、固有名詞なのかどうかも不安になる人もいるかもしれませんね。いかにも一般名詞のような地名です。

上高地は、長野県松本市の西の、北アルプス山中に位置する地名です。古名では神河内と書くこともあるようで、この漢字だと、大阪の近くか？と思うかもしれません。

上高地に対して抱くイメージは、人によってかなり違うような気がします。「氷壁」（井上靖）など、多くの作家が小説の舞台に選んでいるので、小説のイメージを重ねている人もいるかもしれません。氷壁は登山をモチーフにした小説ですが、日本のアルピニズムの原点はここ上高地にあり、登山の好きな人は上高地は登山基地のイメージかもしれません。アルピニズムとはなんぞや、というあたりは、後述。芥川龍之介の小説「河童」も上高地からインスピレーションを得た作品です。僕が持っているイメージは高村光太郎と智恵子の恋の物語で、光太郎は智恵子を伴って上高地の清水屋に逗留し、翌年結婚しました。当時の新聞は「山上の恋」とはやし立てたとか。最近は上高地はバスツアーの寄り先としても人気で、宿泊もせずに1～2時間、スーツやハイヒールでうろうろして帰っていく客もたくさんいます。東京や名古屋、大阪からは、温泉と組み合わせた気軽な観光先でもあるのです。

で、上高地をどのように楽しんでもよいのですが、今回は僕が再構成した上高地の姿をお届けします。僕がどのようにこういう観光地を楽しむのか、という話でもあります。

■地形上の特徴を探る

まず、地理上の特性を考えてみます。上高地は北アルプスの主峰、穂高から槍ヶ岳に連なる連山の、南の入り口にあたります。北アルプス自体は、日本海側の糸魚川あたりから南北に100キロほどにわたって連なる巨大山塊で、3000メートル級の山々が連なります。まず、この3000メートル級の山というもののイメージをつかむことが重要です。

日本の最高峰富士山は3776メートルで、第2位が北岳（山梨県）の3192メートル、第3位が、ここ上高地のすぐ上、奥穂高岳の3190メートルです。日本には3000メートルを超える山が20ほどしかなく、その半分が北アルプスにあります。ほかの3000メートル超の山も長野、山梨などいわゆる中央高地に集中していて、それ以外にはありません。北海道にも九州にも四国にもせいぜい2000メートルほどの山まで。日本は山がちな国ですが、いただきが高く、谷が深く、天をつく山が連なる土地柄というのは、ここ北アルプスを含む日本アルプスだけということになります。

上高地は、穂高を目の前に控えた清流の流れる静かな谷です。標高は1600メートルですから、六兼屋に近い清里とそう変わりません。栃木県の那須、軽井沢など、高原リゾートともあまり変らない標高で、尾瀬ヶ原（栃木、福島）、戦場ヶ原（奥日光）などとも近い標高です。その点を考えると、ほかの高原リゾートと同じような印象を持っても不思議はないのですが、決定的に違うのは、そこが3000メートルの山ふところにある小さな谷だという点です。

特に特徴的なのは、穂高との距離。上高地の中心地・河童橋から日本3位の奥穂高まで水平距離でわずか4kmほど。垂直距離では1600メートルですから、すぐ近くに、俗人が近づけない高山が手に取るようにそびえているのが、上高地の特徴のひとつだといえます。今でこそ穂高も、その奥の槍ヶ岳も、大衆化して、登頂する人も増えていますが、それでもそこは3000メートル超の世界、一歩間違えばちっぽけな人間を簡単に吹き飛ばしてしまうような、荒々しい山の神が支配する世界なのです。その世界との距離が、これほど近くに迫ってくる。これが上高地の土地柄です。

もうひとつ、上高地を特徴づけるのが川です。梓川の源は穂高のさらに北奥の槍ヶ岳。北アルプスは冬には日本海でたっぷり水を含んだ北西の季節風が山にぶつかり、大量の降雪がある地域です。その雪解け水を集めて流れ下ってくるのが梓川。豊富な水量が急流になって流れ下っていく途中なのですが、上高地付近で傾斜がゆるみ、不思議な安定感のある流れになります。

谷は狭いのに、いわゆる急流や激流にはならず、穏やかな表情で澄んだ水が流れていく。でもよく見るとその流速は早く、冷たく、もし落ちれば、夏、大人でも助からないのではないかというすさまじいエネルギーを秘めています。

梓川の穏やかさ、あるいは上高地の印象を決定づけているのが、梓川の河床が白い石で埋め尽くされているという点でしょう。このあたりは北アルプスは花崗岩（かこうがん）でできていて、毎年の雪解けや大雨で、頻繁に山が崩れ、大量の土砂が梓川に流れ込みます。この土砂が、いわゆる泥ではなく、砕けた白い花崗岩なのです。白い砂のような小石が敷き詰められた河床に、すさまじく透明度の高い水が、大量にかなりの早さで流れ下っていく。水の色は青というより、深い緑色をたたえて、沖縄のサンゴ礁の海のようでもあります。流れは速いのに、印象は決して急流ではなく、ゆったりと流れる大河のようにも見える。こんな不思議な流れ方をする川を、僕は他に知りません。

■上高地は氷河の底？

上高地の地形を決定づけるもうひとつの特徴は、独特の谷の形です。日本の谷はほとんどがV字谷です。川が山を削り、山が高いほど、谷は深く鋭く落ち込み、鋭角な地形になります。谷底である川岸にたてば、両側に山が迫り、圧迫感があるのが普通です。しかし上高地は高い山に囲まれ、水量豊富な川が流れているにもかかわらず、周囲は穏やかに丸く、谷はU字型をしています。

現在上高地にたどりつくには、国道から上高地公園線という道に折れてすぐ、どんでもなく急なトンネル（釜トンネル）が続く難所を越えなければなりません。ここが上高地の下流になります。このあたりの谷は文字通りのV字谷で、川岸に立つこともできないほどの鋭さです。

普通に考えれば、上流に行くほど谷は険しく深くなってもいいはずなのに、上高地は穏やかな丸い谷です。このような地形になった理由は諸説ありますが、わかりやすい説明のひとつが、ここに巨大な氷河があったというものです。実際、北アルプス山中には氷河地形が残っているのですが、氷河地形の特徴的な形が「ムーミン谷」です。山は高く、谷が丸く、そこに海が入り込み、湾になっている。こういう地形が氷河がつくった典型的なもので、ノルウェーやフィンランド、アラスカ、ニュージーランドなどに残っています。上高地にいると、この地にかつて大きな氷河があったのかもしれない、と感じさせるし、U字谷であるが故に、日本のどの土地とも違う独特のエキゾチシズムと安心感を感じさせるのだという気がします。

■若い植物たち

ここから生き物、特に植物の話です。

上高地は、国立公園で開発が制限されているし、こんなに山深いのだから、手つかずの自然だと思う人もいると思いますが、実際のところ、ここにあった大木は江戸時代にほとんど切られてしまったようです。松本藩の領地だったこのあたりは、藩の命令で多くの杣人（そまびと＝木こり）がこの地に住み着き、大木を切り出していました。明治になり、伐採は禁止されますが、すでに裸山同然だったようです。大正期になり、植林が行われて、成長が早く寒さに強いカラマツが大量に植えられました。この点は軽井沢や八ヶ岳上部と同じような経緯です。このため、現在の上高地は、カラマツが多く見られます。

もうひとつ、上高地を特徴づけるのがヤナギの類です。カラマツが人間の手によって植林されたのに対して、ケショウヤナギは花崗岩の砂利で覆われた梓川の川岸や中州にやってきて、ろくに土もない河床に根を張り、育ってきました。その生命力はたくましく、流れの速い中州にちょっとした林ができているほどです。

カラマツなどの針葉樹と、ヤナギに代表される広葉樹。そのバランスが実に美しいのが上高地の印象を決定づけています。普通、1500メートルを超える山中ともなると、針葉樹が多くなり、森の表情も単調になりますが、上高地ではさまざまな広葉樹が枝を広げ、針葉樹が山らしさを演出し、と木の知識がないものが見ても飽きずに眺められる豊かさがあるのです。

木の下の草類も同じです。春から秋までつぎつぎに高山に咲く植物が花開き、可憐な姿を見せるし、一方で場所によっては笹が深いやぶをつくり、鳥たちに隠れ場所を提供しています。

狭く、気象も厳しいこの地に、どうしてこれほど豊かな植物や動物が住み着くのか？　そのひとつの理由が、山の変化の激しさです。U字谷は傾斜が急で、降水量が多いために、梓川の右岸でも左岸でも、しょっちゅう崖の崩落がおきて、花崗岩の小石や大石が森をさらっていきます。がけが崩れとそこに明るいやせた土地ができ、乾燥に強い草花が生え、ヤナギがやってきて、新しい森を作り始める。

崖崩れではなくても、植物の交代はしょちゅうおきます。上高地を歩いていると倒木の多さに驚くのですが、これはここの自然本来の姿だそうです。花崗岩質で表土が薄く、木々は根が深く張れないので、薄い表土の中に皿を伏せたような根を張ります。これでは力が不足しているために、大雪の重みに耐えかねて、毎年たくさんの木が倒れていくそうです。倒れた木はじょじょに腐り、キノコをつけ、またそこに新し木や植物がやってきて育っていく。倒木と山崩れ、川の浸食などによって、森が短時間で更新を繰り返していること、これが上高地をいつまでも若々しい印象にしているのです。

■人の歴史

さて、ここに人の歴史が重なります。上高地の歴史は、記録にある限りでは江戸時代の初め、松本藩が木を切り出すために上高地に杣人を住まわせたことから始まります。高地での木こりの生活は厳しいものだったでしょうが、上高地は温泉も出るし、動植物は豊富で、意外に生活がしやすかったのかもしれません。最盛期は200人以上の人が谷に暮らし、杣人の生活を支える物資を下から運ぶ女たちと、腕っ節の強い木こりたちが、梓川の河原の柳の木の下で恋に落ちるのも日常だったのかもしれません。大木の切り出しや急流を材木筏で下る仕事は危険と隣り合わせで、恋人の目の前で命を落とす悲劇もたくさんあったはずです。

そんな江戸期の林業時代が終わって、大正以降は植林が始まり、果樹園や牧場のトライアルも行われましたが、これは失敗に終わりました。

代わって上高地に登場したのがアルピニズムです。英国人宣教師ウォルター・ウェストン(1861-1940)が来日し、明治中期から布教活動の傍ら北アルプスなど日本の主要な山々を踏破しました。

日本では、スポーツとして山に登るという習慣はなく、あったのは山岳信仰です。修行僧が難行苦行のひとつとして山を巡ったり、山自体がご神体という信仰を集めている山に登ることが、神々の恩恵を受けること、と考えていたわけです。

ちなみに山岳信仰のもっともわかりやすいのが、江戸庶民のあいだに流行った大山参りで、この大山とは、神奈川県丹沢の大山神社です。江戸からも近く、信仰心を満たしながらも、実はほどよい息抜きと観光体験でした。

ウェストンの登山によって、山は神に近づくためのものではなく、ハイカラなスポーツの場になりました。山に登ることそのものが人間の限界に挑戦することであり、限界を超えるために競い合うことなのだというアルピニズムの考え方を、ウェストンは広め、次第に登山そのものを愛する人々の「聖地」として上高地が知られていきます。

明治～昭和初期にかけて、高村光太郎や芥川龍之介などの文化人がこの地を訪れるのも、登山が新しい時代を生きる新しい人間を象徴する活動だったからでしょう。

■観光に押し寄せる時代

1933年（昭和8年）になると、松本から飛騨高山に抜ける国道から上高地に入るための道が整備され、クルマが入れるようになります。釜トンネルの開通です。

高村光太郎と智恵子がやってきた大正2年にはまだ釜トンネルはなかったので、彼らはいまのルートではなく、明治のウェストンと同じように、東の徳本峠を歩いて超えてやってきました。大変な道筋を智恵子も歩いたのだなあと思いますが、当時の日本人はどこに行くのも歩くのがあたりまえで、ふつうのビジネスでも商談で日本橋から銀座、新橋と歩いていくのがあたりまえだったようですから、か細く見える智恵子もいまの僕らよりもずっと体力があったのでしょうね。

昭和の高度成長期以降は観光地として人気を集め、マイカーで訪れる人も多くなったわけですが、1975年からは夏期マイカー乗り入れ禁止、1996年からは通年の乗り入れ禁止になり、バスかタクシーでしか入れなくなりました。それでも、最初に書いたとおり、大型バスで乗り込み、数時間滞在で去っていく観光客が増え続けていて、年間来訪者数は200万人になっています。ちなみに上高地周辺は冬期は閉鎖されるので、ホテルなどはすべて閉店、交通機関もありません。冬山登山をする人のみ、徳本峠や釜トンネル経由で徒歩で入っています。

■上高地って、結局？

さて、上高地の特徴を根掘り葉掘り考えてきました。僕が考える上高地の魅力は、3つあると思います。

まず、たぐいまれな地形。梓川とU字谷、そして3000メートル級の神々が住む山を本当に間近に見渡せるスケール感。その景観の美しさです。

2番目が若々しく、力強い植生。同じように観光客の規制が行われている尾瀬は、さわると壊れてしまいそうなはかなさが魅力でもあり、でも僕はその弱々しさがあまり好きではありません。上高地の自然は、山崩れで壊れても、川の流れが変わって木が枯れても、つぎつぎに生まれ変わる若い再生力にあると思います。

もちろん、だからといって人間が入り込み、好き勝手にすればたちまち破壊されてしまうのはいうまでもありません。人間は、自然の変遷をじゃましないように、人間がやたらに入り込む場所ではなく、自然が変遷を続けるダイナミズムが主役の舞台装置なのだという立場で、それをそっと見させてもらうという以上のかかわりをするべきではないでしょう。その点では尾瀬と同じなのですが、それでも上高地の自然の持つたくましさは、はかなさ以上に魅力的です。

3番目は、歴史です。今回はかけなっかたのですが、木こりたちとウェストンたちとのあいだに、実は修行僧・播隆上人（ばんりゅうしょうにん）の物語が挿入されています。ウェストンを支えた木こり出身のガイド上条嘉門次の物語もあります。たぶん、もっと知っていけば、いま、上高地の良さを守り続け、後世に伝えようとしている人々の物語にも出会えるはずです。

狭い上高地を舞台にした数百年にわたる人々の密かな物語が語り継がれているのも、上高地を訪れる楽しみのひとつです。同じ梓川、同じケショウナヤギを見ていた人々の姿を想像しながら、同じ道を歩く。狭いからこそできる、時間を感じる楽しみです。

あなたは、上高地、好きですか？嫌いですか？どちらでもないですか？
ひとつの土地を、ただバスツアーで行きすぎるのではなく、少し深く知りながら楽しんでみるのもまた、よいのではないかなと思います。

この記事に関する感想や意見、またこの記事に対する評価をおまちしています。こちらのページから、お気軽にお寄せください。コミトンはあなたの意見でもっとおもしろくなります。

渡辺パコ。ライター、デザイナー、コンサルタント、グロービス・マネジメント・スクール講師。
1960年東京生まれ。学習院大学文学部哲学科卒。85年採用広告プロダクションでコピーライター、クリエイティブディレクターとして広告、会社案内の制作、PR戦略の企画立案などを担当。その後、独立して90年に有限会社水族館文庫を設立。94年から著作活動を開始する一方、Webサイトの設立・運営にアドバイザーとして積極的に参画、ビジネスインキュベーションを担当。雑誌などへの執筆活動も行う。著書に「人生に役立つ論理力トレーニング」（幻冬舎）「＜意思伝達編＞論理力を鍛えるトレーニングブック」「論理力を鍛えるトレーニングブック」「手にとるようにIT経営がわかる本」「図解＆キーワードで読み解く通信業界」（かんき出版）、「LANの本質」、「生命保険がわかる本」など。

mail:paco@suizockanbunko.com