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佐世保で、12歳の少女が同級生を殺害するという事件が起きました。佐世保の街自体はいったことがないのですが、長崎は妻の母親の出身地でもあるし、長崎や平戸には何度も行っていて、親近感があるし、僕の娘は5年生で、インターネットも好き、となると、非常に身近なことに感じられます。

もし娘が同級生に殺されたとして、そもそも僕はその子を「憎む」ことさえできないのではないか? 娘の友だちとは時々少しは話をするし、男親としては女の子たちはとてもかわいく見える。娘の親友が犯人だといわれても、「ウソだよね???」という感じであり、その一方で「じゃあ自分の子はなぜ死んでいるんだ?」と感情の行き場がなくなり、混乱しそうな気がします。

逆にもし僕が加害者の親の立場になれば、僕のように本を書いていたり、子育てのことにも発言していたりすると、「それ見たことか!」と非難が集中するだろうし、その一方で、ケガもしていない娘がなぜ別の場所に留め置かれているのか、彼女から本当のことを聞き出せるのは他人ではなく自分ではないかと思ってしまいそうです。娘が困った状況になったときにはいつもそばでいっしょに考えてきたのだから、人生最大のピンチのいまこそ、自分がそばにいてやらなくちゃ、と思う気持ちを抑えきれないだろうと。

そんな親の感情はありつつも、犯罪を犯してしまった子どもとどう向き合えばいいか、いまの社会はどのように向き合おうとしているのか、整理してみたいと思います。タネ本として、「少年A 矯正2500日全記録」を使います。

■大人の犯罪と子どもの犯罪はどこが違うのか?

大人の犯罪と比べて、子どもの犯罪をどのように捉えるのかという点は、社会一般にはあまり知られていないことだと思います。

これまでの少年犯罪(女の子も犯罪をおこすのに、まとめて少年と呼ぶのはおかしいけれど)は、子どもとはいえ中学生以上、多くは高校生に当たる年齢が多かったこともあり、体も外見上、大人に近いのだから、大人並みとはいえないまでも、大人に近い善悪判断できたはず、という見方をしてしまうことが多いように思います。人を傷つける、殺す、といった重大な判断はできるだろうという見方です。

しかし今回のように12歳、小学生となると、「大人に近い子ども」ではなく、やっぱり「子ども」に見えます。大人のような部分を見せることもあるけれど、基本は子どもという印象でしょう。そういう年齢の子どもが、本当に「人を傷つけてはいけない」という判断ができるのか? と問い直さなければいけない。

子どもたちの日常生活で、他の子どもを肉体的に傷つけることは、あまり多くはないにせよ、ないことではありません。ケンカしてひっかいた、むっとしてボールを投げつけた、といったことは誰しも経験があることだし、それによって打撲、擦り傷、といったことがあってもいちいち罪に問うようなことではないでしょう。

体を傷つければ、痛がるし血も出るから、いけないことをしたときがつくのですが、心を傷つけるということには、子どもたちはびっくりするぐらい鈍感です。グループをつくって友達を囲い込み、グループ外の子を排除するというようなことはよくあることで、排除された子の心がどれだけ傷ついているかということには、排除した側はまったく気がつかないのが子どもです。あとになって自分が排除する側になって初めて「あのときは人をこんなに傷つけていたんだ」と気がつくわけです。

子どもの視野は、「物理的な意味で目に見えているもの」という意味でも、「心で捉えられている範囲」という意味でも、大人よりとても狭いのが現実です。小学校の中学年ぐらいまではクラスで休んでいる子がいても、遅刻してくる子がいても、普通は気がつかないぐらいだし、他の子がみんな体育館に行こうとしているのに、自分たちは遊んでいるということもよくあります。

実はこういう視野の狭さは「子ども」だけの問題ではなく、20代の社会人になっても続きます。入社3年目ぐらいの若手が上司に怒られているのを見ていた同期入社の3年生に、「A君が怒られているのを知ってるよね、それを知っていて何で君も同じことをするわけ!?」と怒られたり、怒ったりした経験がある人もいるかもしれません。隣で怒られているのを聞いているのだから、「他人のふり見て我がふり直せ」と思うのは当然だろう、と。

しかしこれができる人は20代でも必ずしも多くないの現実です。その理由は、20代になっても、人間の「視野」は意外に狭く、怒られているところまではわかっても、それを自分のことに「引き寄せて」考えるというような「つながり」を持ってものごとを理解できないのです。

少年犯罪の中心的な年齢である中学生や高校生では、この傾向はより顕著で、ものごとをつなげて考えることが苦手で、隣の子が別の子を傷つけ、それによって本人も苦しむのを見ていたとしても、それを自分にも起こりうることとして引きつけて考えることができない。つまり自分もまた人を傷つけたり、傷つけられたりしてみないとなかなかわからない、というのが少年期(少女期)なのです。

まして小学生であれば、そもそも周囲で体や心を傷つけてしまうとどうなるかという経験をしている人が少なく、「人を殺してはいけない」「傷つけてはいけない」という知識はあっても、それが「自分がやってはいけない」「自分がやると、自分も苦しむ」というように、引きつけ、つながりを持って考えることができない年齢だと考えられます。

つまり、自分がやったことがどのような結果をもたらすのか、うまくつながりを持って考えることが極度に苦手なのが、子どもたちの基本的な特性で、それは実は20代になっても続いているようなことなのだ、と理解する必要があるということです。

大人の犯罪は、それが悪いとわかりつつやった(故意)とか、悪い結果になると知る能力があるのに気がつかずにやった(過失)、という場合に罪に問えるというのが基本的な考え方です。悪いとわかる力が弱い少年犯罪には、大人と同じような罪に問うことはできない、と考えるのが、いまの少年犯罪の考え方なのです。同じ理由で大人であっても「心神喪失状態」にあった人は、判断がつかない状態で犯してしまった罪なので、減刑されるべきだという考え方になります。

少年犯罪でも、重大犯罪の場合は、大人と同じように裁判にかけ、刑務所に送るべきだという考え方があります。しかし裁判にかけるということは、そのとき何をしようとしたのか、その結果何が起こるのかを説明できる力があるということが前提です。12歳の子どもに「本当に死ぬと思ったのか、そうではないのか?」と質問しても、その答えが「刃物で切れ」ば「本当に死ぬ」というつながりがわかって出てきたものか、その点自体があやしいということが実感できます。では、13歳なら? 15歳なら? 17歳なら?と考えていくと、単純に大人と同じように罪に問えばよいと言えないでしょう。

■厳罰化で抑止効果はあるのか?

このように考えてみると、少年犯罪に炊いて厳罰化や裁判を受けさせるという方法で対処しても、抑止効果があるのか、疑問が大きくなります。

抑止効果は、「これをすると罪になり、前より重たい罪になる」という因果関係が自分のこととして引き寄せて理解できて初めて意味を持ちます。しかしもともと因果関係やものごとのつながりをつかむ力の弱い子どもには、厳罰になったということが自分のこととして理解されない可能性のほうが大きいと考えるべきでしょう。

「これをすると手が後ろに回るぞ」という理解ができる大人との、大きな違いです。

もっとも僕らが中学生のころから「14歳になると重大犯罪では死刑になるんだぞ、やるなら今のうちだ」というような会話は交わされていたので、まったくつながりがわからないわけではないし、個人差があるのはいうまでもありません。しかしそれが本当に自分のこととして考えられていたのかというと、僕自身のこととして心許ない。「死刑になるんだぜ」と話していても、「死刑判決が出ても、実際に死刑になかなかならない人もいる(その間とてもつらい)」「重大犯罪だからといって、簡単には死刑にならず、少年院に送られてしまう」というようなことにまでは、たいてい理解が進んでいないのです。つながりがあるといっても非常に限定的であるということには代わりがないと考えられ、大人並みの扱い、厳罰化をしても抑止効果につながるかは慎重に判断する必要があります。

■親の責任は問えるのか?

もし本人の責任が大人のようには問えないなら、子どもの犯した罪は親に責任があるのでしょうか?

ここまでの考察から発展させてみると、親や学校などが子どもたちに、因果関係について教えていたとしても、それを実感を持って理解できているとは限らず、抽象的なレベルに留まっている傾向があると考えられます。

子どもたちが「やったこと」とそれによって引き起こされる結果について理解するためには、経験が必要で、小さな経験の積み重ねから理解を深めて、重大な結果を引き起こさないようにする過程が、子どもが育つプロセスだと考えられます。

小さな経験を積み重ねる途中にある状況の中で、親に「小さな経験の与え方が足りなかった」という点について責任を問うことができるのか? 子どもをガラス箱にでも入れておいたのならともかく、友だちと遊び、学校にも行くという子どもなら、そのプロセスで積み重ねていると考えるのが普通で、それを持って「機会を与えなかった」とまで責任を問えるのか、簡単にはいえないでしょう。

その一方で、親は、犯罪を犯した子の親であるだけでなく、兄弟がいて、その子の親である場合も普通です。ひとりの子が犯罪を犯したからといって、親が責任をとって収監されてしまえば、罪のないもうひとりの子が親を失ってしまうことになり、合理的ではありません。同じ親に育てられても、兄弟全員が犯罪を犯すわけでもありません。かといって一人っ子の親だけ罪に問うというのももっと合理的ではありません。

少年犯罪を犯した子の親には、道義的責任以上は問えないというのが、やはり結論になるのではないでしょうか。

■矯正は可能なのか?

では、罪を犯した少年少女は、その後どうなるのでしょうか?

傷害や殺人などの重大事件を起こしたものは、少年院に送られ、「矯正」を受けることになります。神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件のA少年は、医療少年院に送られ、精神医学の観点も含めて矯正を受けたのですが、通常、医療少年院に入る殺人事件を起こしたような少年でも、1年~1年半程度で退院し、通常の社会生活に戻っていくといいます。

大人がこの年数を聞くと、「たったこれだけで社会に出てくるのか?」と思うわけですが、子どもの変化は大人よりはるかに大きく、変るのに時間がかからないこと、いずれにせよ死ぬまで収監しておくことはできず、社会に出てくるなら、早く社会に出て社会に適応させた方が、再犯が防げることなどの観点から、経験的に決まってきた数字なのだと思います。

僕は少年犯罪の専門家ではないので、よくわからないのですが、おそらくこれ以上長い時間を少年院で過ごしても、社会復帰の効果はあまり変らないという研究があるのではないかと想像しています。

罪を犯した理由が、視野が狭く(独善的で)、自分がやったことの結果を想像し、自制することができないのだとしたら、矯正措置によって広い視野を身につけ、結果を想像する力が身に付けば、その後の再犯の可能性は下がります。もちろん再犯をゼロにすることはできないわけですが、それは大人の場合も同じで、殺人事件といえども、よほど凶悪な場合以外は、いずれ社会に出て、更正するという未知をとるのが今の司法制度ですから、少年少女の場合も同じように、「どのように矯正し、更正させるか」が焦点になり、いわゆる「懲罰」ではない対応するのは、納得性があると言えそうです。僕らが罪を犯した人の「その後」を知らないのは、ある意味、罪を犯した人の更正が(比較的)うまくいっていることの証明と言えるのかもしれません。

「酒鬼薔薇聖斗」の少年Aの場合、犯罪の原因として、性の倒錯があげられていて、通常なら女性に感じるはずの性欲を、生き物の虐待や死に対して感じるようになってしまい、自慰行為の時には殺人をイメージして行うまでになっていたといいます。「人間の腹を割き、内臓に噛み付き、むさぼり食う」というイメージで自慰行為を行うという倒錯は、聞くのもおぞましいものの、こういった「異常なイメージ」を使って自慰行為をする習慣が消え、わずにふつうの「女性」のイメージで自慰行為ができるなら、少年Aの更正に向けた重要な1ステップを上がったと考える。少なくとも少年Aの更正は、このようなアプローチで、異常性が怒る原因をひとつひとつつぶし、通常の性欲と因果の判断、善悪が理解できるようになることが「更正した」ことになるという流れで行われました。

あれだけの重大事件を起こした犯人であるAが「更正した」「再犯のリスクが小さい」と判断できる根拠が、このような判断でいいのか?という点は疑問を投げかけることができると思いますが、一方でこれ以外の根拠をあげることも難しいという気がします。「犯罪的な行為を少しでもイメージしたり、見聞きしただけで、吐き気がするように人格を改造する」というようなことも考えることはできますが、それでは「時計仕掛けのオレンジ」でスタンリー・キューブリックのが描いた近未来のイメージそのものであって、かえって非人間的です。

犯罪に至った人格的な欠落を再度育て直し、人間らしい心理を持った人間に更正させて社会に戻す。これが少年犯罪の基本的な対応になるのでしょう。とはいえ、12歳の少女の殺人というケースは日本では前例がないため、どのように実際に行いうるのかというノウハウは、手探りが続くことになりそうです。「酒鬼薔薇聖斗」の更正が国家プロジェクトとして進められたのと同様に、今回のケースも、逆に社会の力が問われることになるのです。

■罪と共に生きていくということ

では犯罪に至った心理的な原因がいったん消失して以降は、少年Aや今回の少女は、それでうまく生きていくことができるのでしょうか?

少年Aの場合、自分が犯した罪を自覚した段階で、その罪の大きさにおののき、自殺するのではないかという心配を関係者はしていたことが、本に記されています。更正することがあっても、「自分が」その子を殺してしまった記憶がなくなるわけではないし、被害者の家族への償いが終わるわけでもありません。人生のごく初めにそういった罪を背負ってしまう人生というのは、その重みに、人間は耐えられるのか、人のことながらむしろそちらの方が重たすぎる課題と言えそうです。

更正させると言うことは、そういう人生を彼らに背負わせると言うことでもあり、実際、酒鬼薔薇聖斗の場合、「これで死刑になると思っていたのに、なぜ死刑にしないんだ?」という意味の発言を繰り返したそうです。多くの人々からは「おまえなんか死んでしまえばいいんだ」と思われ、自分でも「死にたい」と思っていたのに、罪と共に生きて行け、と僕らの社会はいっている。

今回の事件をきっかけにして、「こうすべき」というような意見を表明することなどとてもできないのですが、少なくともわかっておきたいことは、罪を背負った少年少女たちは、そう遠くない将来再び社会に戻り、彼らとともに僕らは生きていくことになる、という現実は、見ておきたいと思います。

最後になりましたが、亡くなった女の子と、ご家族には、深い悲しみの心を捧げます。合掌。

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渡辺パコ。ライター、デザイナー、コンサルタント、グロービス・マネジメント・スクール講師。
1960年東京生まれ。学習院大学文学部哲学科卒。85年採用広告プロダクションでコピーライター、クリエイティブディレクターとして広告、会社案内の制作、PR戦略の企画立案などを担当。その後、独立して90年に有限会社水族館文庫を設立。94年から著作活動を開始する一方、Webサイトの設立・運営にアドバイザーとして積極的に参画、ビジネスインキュベーションを担当。雑誌などへの執筆活動も行う。著書に「渡辺パコの35歳からは好きなことでお金を稼ぐ」「環境経営の教科書」「人生に役立つ論理力トレーニング」(幻冬舎)「<意思伝達編>論理力を鍛えるトレーニングブック」「論理力を鍛えるトレーニングブック」「手にとるようにIT経営がわかる本」「図解&キーワードで読み解く 通信業界」(かんき出版)、「LANの本質」、「生命保険がわかる本」など。

☆ポートレイト撮影:川口愛

mail:paco@suizockanbunko.com

         
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